自叙伝記487

2017/10/04

 

 

もともとカオスとは闇のことであり 整頓された 整えられた バランスと均衡 成ることや成っていること以外のことである

 

 この宇宙のあらゆる諸悪の根源にあるものが「カオス」、つまり闇である。しかしその乙姫というのは、そのカオスの主催者でカオスではあるが、邪神ではない。月から闇へ移行した水神と言えるだろう。

 故に邪神邪霊とはカオスの存在を意味し、これは神、つまり宇宙に法則に乗っ取らない存在を意味している。

 だが、このカオスというものを突き詰めて知ること、それが一つの課題としてあるのだ。

 

 

カオスとは宇宙以外を意味する

 

 例えば人間がいる、宇宙にいる。人間が「おはようございます」と言ったとすると、それは宇宙である。「おはようございます」は宇宙である。「こんにちわ」と言うことも、こんにちわ、と言う言葉は人間の口から発音さている、それを発動しているのはその人間の意志や思いである。その意思や思いは宇宙にある、故におはようございます、というのは宇宙である。

 カオスというのは宇宙以外だから、絶対的にそのおはようございますとは異なると言う意味なのだ。つまり、整えられていない、均衡が保たれず、均衡がなかったとしたら、宇宙のバランスが保てない。つまり均衡があるからこそ、それを保っているらこそ、「お」の次に「は」がきて、次に「よ」がきて、「う」がきて「ご」がくる。そして「ざ」「い」「ま」「す」という順番も生じているのだ。

 つまり、その「お」から「す」までにある、9の要素、これが宇宙の均衡では、はじめに「お」がきて、次に「は」がきて、最後に「す」がくる。カオスという宇宙は宇宙の均衡がない、その均衡が、「お」とか「は」とか「よ」というそれぞれの、一つ一つのバランスと言うものを生み出している。均衡がなければ、当然宇宙のバランスは保てない。と言うことはバランスが崩れる。そのくずれたもの、それがカオスなのだが、故にカオスとは、その「お」から「す」までの、バランスが崩れ、故に均衡がないから、宇宙の順番とも違う。つまり配列も順番も、「お」の次が「は」で、次が「よ」という順番も決まりもない。故に「うすよおはざまいご」というように、「宇宙」になってないもの、と言えるのだ。

 宇宙ではあいさつは「おはようございます」「こんにちわ」だ。故に、挨拶がそのように、うすよおはざまいご、というようになれば、その「あいさつ」は「変」である。つまり宇宙に対しては「変」であり、宇宙にはなっていない。カオスとはまずそのように、宇宙のバランス、均衡、法則、それは、「お」から「す」までの九つの文字が、一つずつ宇宙によって「整理」されているから、「おはようございます」という一つの宇宙が生じるわけで、カオスとは、その絶対的な宇宙の「整理」にならない力、エネルギーのことである。そのような空間があるのだ。

 

宇宙とは一つ一つの要素が均衡というエネルギーが集合して整理された空間である

 

 宇宙とはまずそのように、あらゆるもう数え切れない要素と言うのが宇宙にはあるだろう。例えば広辞苑でその単語の数を見ただけでもかなりの要素がある。元素記号、プラスチック、鉄、鉛、空、魚、えら、数え切れないほどの「語句」がある。

 それらはすべてその均衡とバランスの法則で、整えられて整頓されているのだ。例えば魚がいる。鱗がついている。魚の胴体に、人間の毛が生えていると言うことはない。石を落としたら、コツンという音がした。石を落としたのに、ガシャンとガラスが落ちて割れる音がすることもないだろう。石が落ちらら、その石の大きさや物体に「均衡」がとれた音が生じるのだ。

 宇宙はすべて均衡でなりたち、均衡で整理されている。つまり整頓されているのだ。魚の胴体の横に馬や象の大きな目がついている、なんてことはないだろう。やはり魚の大きさに合わせた目があり、象は象に均衡が取れた大きさの目があり、バランスがあり、配置され、すべて整えられて、この宇宙や地球がある。

 宇宙のバランス、つり合い、均衡、人間もその宇宙にいる。宇宙の均衡の一つである。整頓の一つ、整えられて存在している。宇宙流に整えられているのだ。

 ために宇宙以外の均衡やバランスに人間が触れた時には、すべて、宇宙以外のもの、その宇宙以外のものに人間が触れた時に、宇宙以外のものは、「嫌」に感じると言うことだ。

 例えば変な顔をしたオラウータン、変わった形をした鳥、などもいるが、それは変な顔をしたオラウータン、と言う一つのバランスと均衡で存在する。つまり、それは変ではないと言うか、「変」というのも、実は宇宙なのだ。変な顔をした鳥、変な走り方をするエリマキトカゲ、「変」も、人間の言葉の中にあるのであって、変も一つの宇宙に存在しているもので「変」ではすでにないのだ。自然の中にある変である。

 つまり「カオス」とは、ただ単に「変」と言う意味じゃない。「嫌に感じるもの」「何なこれ?」と感じるもの。「何なそれ?」みたいなもの、カオスは多くは人間にそういうものをもたらす。

 

 

宇宙以外のものは人間に「何なそれ?」「嫌」などに感じる

 

 変な顔をしたオラウータン、変な形や顔をした鳥、目玉の大きな鳥、で、これがバランスが取れていないのかと言うとそうでなく実はすべてバランスがとれている。変と人間が思うバランスであるから、宇宙に存在しているものを人間が見て、「嫌」に感じたり、「何なこれ?」と思うものと言うのはない。

 そしてこれが実は非常に難しい。例えばステレオ、スピーカーがある。その上に、鉛筆を置きました。あなたが置いたものでも、地上の人間が置いたものでもいい。ただ、そのスピーカーの上に鉛筆が置かれている。人間はただそれを見たら、何な?ただ鉛筆が置いてあるだけだろ、と思うだけである。だが、その鉛筆を仮に「カオス」が置いたとしよう。その鉛筆の位置が「カオス」だとする。

 そうすると、宇宙に存在している人間は、その鉛筆を見たらどうなるか。人間が鉛筆をそのスピーカーの上に置いたのだが、置かれている位置は大体中央、角度は30度ほど右に傾いている、先は向こう側。別にそれ以外には何もない。

 また同じように、カオスの力とエネルギーでその鉛筆を置いたとしよう。やはり一見したら同じ光景なのだが、やはり置かれている位置は中央で、角度も30度ほど、先は向こう側。別に同じなのだが、そのスピーカーの上においてある鉛筆をもし人間が見たら、何なこれ、嫌~~、何なこれ? ????? うえぇ~~~、そのげろが出そうになるということだ。

 なんでか?見たらただ鉛筆が置いてあるだけである。角度も29.5度、別に鉛筆が空中に浮いているとかそんな異常な光景ではない。けど、何かか違うのである。いったい何が違うのか?

 何かが違うのだが、何かが違うというもの。それがカオスである。

 

なにか なにかだけど なにかと言うもの

 

 なにか、なにかなんだけど、何なこれで、うわぁ~~、いやぁ~~と言うものがカオスなのだ。

 つまりその鉛筆はただおいてあるだけである。別に誰かが悪気があって、カオスが悪気があっておいたというわけでもない。ただ置いてある鉛筆である。けどなにかが違う。何が違うのか?均衡が、宇宙と違うのである。

 

 

カオスとは宇宙空間に生じないバランスの配置を生じさせる

 

 これはどういうことなのかというと、ようは宇宙には法則がある、科学の法則である。この法則によってあらゆるものが生じているのが宇宙だが、例えば水素があれば酸素と結合する、重さ何キロ、何グラムのものを空気圧どれそれで、落としたら、速度は何キロで落ちるとか、すべて法則でなりたつから、その法則で生じたものが宇宙空間である。

 人間の宇宙の法則で存在しているから、例えば人間がそのスピーカーの上に鉛筆を置いたとしたら、人間種からしか生じないその空間がそこに生じているのだ。人間の中身は、宇宙の存在だから、人間が何気に思って、鉛筆を置いたら、その法則、人間の中身にある意思の法則と波動で、その意思からその鉛筆が配置されたのだ。

 だが、宇宙のバランスと均衡でないカオスから生じた力で、単純にそのスピーカーの上に、銀河系の物体である鉛筆を置いたとしても、そこに生じているスピーカーと鉛筆の位置、配置、バランスは、宇宙空間でないということだ。

 なにかがその宇宙とは異なるのである。角度が、スピーカーとの配列が、なにか違ったバランス、均衡になっている。

 なにかが変で、この変は、宇宙の変には属していない。例えば志村の変なおじさんがあったが、あれは変ではない。変と言う人間の枠というか、人間が変に思う変なのだが、カオスとは、その人間の枠(宇宙)にある、変ではない。言ってみれば普通でないともいえるのだが、変とは、人間が知っている変というのは実は普通のことなのである。

 ようは宇宙のバランスでないものに人間が触れたら、宇宙のバランスで存在している人間にとっては、それは宇宙以外のもの、宇宙以外のバランスになる、生じるはずのないバランス、物体配置などである。

 

カオスのエネルギーはすべての軌道を狂わせ 人間の軌道と機能を破壊する 科学兵器、化学物質エネルギーによる宇宙兵器である

 

 そしてこのカオスのエネルギーと言うのは人間にいったい何をもたらすか?これは今言った、宇宙は「おはようございます」である。だがカオスの妖怪たち、そのバケモノが人間に化けている存在だが、これは兵器である。

 例えば、単純な話、彼等の内部エネルギーはその「おはようございます」と言う人間の軌道、法則、エネルギーが、バラバラになっているものだ。

 ということは、例えば店で3500円の買い物をしたら、当然財布からは、1、2、3、4、という千円札を四枚出すか、100年を5個、というように、人間の順番、軌道は、財布からお札を4ま枚、1枚、2枚、3枚、4枚と順番に出すのだが、それが宇宙である。だがその順番も何もないエネルギー、カオスがその人間に働くと、その順番通りにならない。1枚、2枚、4枚というように、4000円出したつもりが3000円しか出してないとか、1枚、2枚、3枚、3枚、4枚というように、4000円にならず、5000円になるという具合だ。つまり、カオスとはずそのような宇宙の「間違い」に属するエネルギーであり、例えば朝ごはんを食べようと、はしをつかんだら、それを口に運ぶにしても、宇宙の法則、銀河系の順番、軌道では初めにはしをつかんで、おわんのご飯をつかんで、3番目に口に運ぶ、と言う順番にしても、カオスのエネルギーを受けると、その順番通りにならず、宇宙の軌道=人間の軌道などに狂いがである。

 カオスエネルギーとはこの宇宙にある狂いの根源でもあり、変を引き起こす根源にある力だ。この変とは、銀河系にならない、と言う意味である。銀河系にならない、なっていないもの、なれないもの、と言えるだろう。

 

 

 

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魔王 全世界の支配者(ルシファー)は平成23年 闇と太陽の接近で 日本の支配者となる

 

 聖書には堕天使ルシファーがいて、全世界を支配している、いわゆる秘密結社、フリーメイソン(赤竜界や黒竜界)を動かしているとされる。この魔王という歴然たる力、そういうものが本当にまず存在しているのか?している。

 東北大震災が起こった数時間後に、私は大きな闇(影)が、いわゆる体湯に接近して太陽を飲み込んでしまい、煌々としていた昼間が突然夜のように暗くなった、いや夜以上に、街灯も信号機の光も、町の建物のイルミネーションもないために、真っ暗となった。

 そしてこれは言ったが、海の底から「闇」である乙姫が太陽に接近したことを意味する。

 いったいこの現象はまず何を暗示しているか。乙姫は闇であるが、私を通じて堕天使ルシファーを、ユダヤの悪魔、魔王にしていた。

 そしてこの堕天使ルシファーとは、いわば私を鏡に写した存在で、赤竜を意味する。つまり私と相対しているのだ。故に共産勢力やそのロボットたちもすべて私と相対する。

 私が家を出て学校に向かえば、その家を出た瞬間にロボットたちは学校から私の家に向かっている、同時行動である。影なのだ。

 そして乙姫が海の底にいて闇に属していた平成23年まで、堕天使ルシファーはユダヤの魔王だった。しかし、平成23年に闇の乙姫が海から這い上がって太陽と一つに重なり、太陽に接近した、これは乙姫の音が日に接近して、「暗」、乙姫が夜で月に向かったことを意味し、日は私を意味するが日本も意味している。そしてルシファーとは私の影であるが、その乙姫が私といわば一つになった平成23年、ルシファーはそれまではユダヤの魔王だったが、日本と一つになり、日本の魔王となった。

 つまりユダヤから日本に来て、日本に本拠地をおき、日本を拠点、自国としている。

 

 

魔神 魔王が大地を揺さぶるたびに 建物は激しく揺れて 崩壊する

 

 そしてその現象は日本国内にいる反日とか左翼的なグループの終末を裁きを意味している。つまり、アメリカにしても中国にしても中東にしてもロシアにしてもまず絶対に日本に刃向かうことができない。それは魔王に刃向かうことになるためだ。

 そして堕天使ルシファーと言うのは魔神を意味し。実際に存在している巨大な魔の力、王を意味し、権威と権力の王であることを意味する。

 故にルシファーの権威に逆らうものは、罪を犯しているものとかそれに関係なく、権威の力、国家権力の警察とか裁判権力で殺害されてしまう。

 そしてこの魔神はフリーメイソンの王だが、歴然と実在し、おそらく朝鮮にしても中国にしても中東にしても、日本に刃向かえばどうなるか?国会議事堂などの前にはエベレストほどの巨体の魔王が出現し、これは山に魔王の猛烈な目が出現したりそれに現れ、もう大地も建物もぐらぐらに揺れて、粉々に破壊されてしまう。

 

 

昭和51年 すでに選び子とそうでないものは振り分けられた

 

 私は終末は大体平成16年に始まり、17年からはその終末へむかったと言ったが、実際に聖書で言われるところの最後の審判、これは私が生まれたその昭和51年にすでにその審判は下されている。つまり滅びてゆくものと、そうでないものとがである。なぜそういえるのかというと、私がその昭和51年に生まれていると言うことがその証なのである。

 そしてこれを具体的に話すと長くなるのだが、キリスト教の言う最後の審判とは、救世主(メシア)が誕生した時に、最後の審判が起きる。

 この最後の審判は、その審判後に残れるものとそうでないものに振り分けられると言う意味なのだが、その残されるもの、それから残されないもの、はその昭和51年に定められたと言うことだ。

 つまり言ってしまうと、アッラーの神は、その昭和51年以降、52年から、いくら信仰をして、神様、神様、終末の日に私を残してください、天国に入れる側にしてくださいとやっていても、アラーはすでに、残すものと残さないものを決めていて、その残されないものは、以後、昭和52年以後にどれだけ信仰しても無意味である。アラーはすでに、人間の世界に目を伏せているのだ。つまり、もうそのときに決まってしまっていると言うことだ。

 

 

残されるもの(種人)と 残されないものたち

 

 やがて天から雲に乗って救世主(キリスト教で言えばイエス)が人々の前に現れる。そして最後の審判が下される。

 神は、昭和50年から51年にかけて、その審判を起こした時に、残れるもの、残されないものをすべて定めた。そしてこの「残されるもの」と「残されないもの」とは具体的にどういうことなのかというと、残される人々と言うのはもちろん神を信仰する者のことで、残されないものとは無神論者や神を冒涜し、侮り、嘲笑するものたちのことである。

 そして、「カオス」と言うものがなぜ宇宙や日本にも存在していたか、と言うことなのだが、これは「残されるもの」を振り分ける一つの餌だった。

 神を真に信仰した時に、宇宙の法則に従わない、宇宙の存在で法則に乗っ取っていないカオスたちは、真の信仰者を攻撃し、その信仰を阻害する。実はそういう宇宙を神自体が置いているということだ。

 真に神を信仰するものは、真に神を信仰したら、必ず悪魔の勢力であるカオスからの迫害や攻撃、弾圧を受ける。だが真に神を信仰して神を思うものであれば、それでも神を思い、信仰を持ち続ける。悪魔の攻撃に耐えてゆく。そして神は、昭和51年ごろまでに、そのように人間を試していたのだ。カオスはそのために日本に存在した。

 しかし私が昭和51年に生まれて以後、平成に入った。10年、20年、そして30年と経過した時に、カオスは消滅する。

 つまり昭和51年からは、実際はカオスが消滅する周期と時期にあたり、神が、彼らに滅びの刑罰と裁きを下す時期に入ってしまっているのだ。つまりカオスにである。

 そしてそのカオスに裁きが下されてゆく時期がそのように昭和51年ごろから始まっていると言うことは、そのときに、神はもう残すものを定めており、後の残されないものには、一切目を伏せて見捨てている。神試しによって真の信仰者を見極め、見分ける時期は、昭和51年には終わっていると言うことだ。そのときにはすでにもう残すものが定められている。

 故に神は、その実際に最後の審判を下す時期までの間を、カオスに裁きをもたらす時期としているのだ。

 

 

 

 

真の世と乙姫の世

 

 そして真実の謎を解く鍵は、実は浦島太郎にまつわる「竹内文献」と、乙姫にまつわる「古事記」にある。

 そしてこれは正確には、日本は聖徳太子の時代以後あたりから、実は真の世界にはいない。真実の世界にはいない。幻の宇宙にいる。この幻の宇宙とは乙姫の世のことである。

 日本の歴史や神話として古事記が知られているが、これは乙姫が製作したものである。これに対して古事記の裏側の書とは、浦島太郎を意味し、それは真史の竹内文献を意味する。竹内文献が(真)で、真の宇宙で「日」を意味したなら、古事記は(偽)で、月であり闇であり、水を意味する。

 そしてこの古事記は、当時日本にいた蘇我氏などが製作しているのだろうが、この蘇我氏のの祖が奇しくも竹内宿禰で、その竹内の系統までが「日(真)」であれば、その韓子(蘇我氏)からは「月(偽)」で、故に竹内文献と古事記は相対で表と裏(真実と架空)で存在している。

 そして古事記は乙姫が製作し、乙姫の世を描き、物語っていると言うことだ。たとえば古事記には、キザナギとイザナミの二柱の男女の神が存在し、初めにまぐわいの仕方を反対にしてその失敗したヒルコが生まれた。しかしこのヒルコは実際はエビスのことで、蝦夷(妖怪)であると日本の神話ではしている。

 ヒルコ=妖怪、古事記と言う架空の幻のフィクション、乙姫の世界は幻でフィクションを意味するが、その裏側の竹内文献では、そのヒルコは妖怪でなく、普通の当時の天皇が産んだ皇子で、当時のアメリカ大陸、エビロスに派遣された皇子になっている。ヒルコが=エビスだというのは、そのアメリカの「エビロス」から来ているのだ。アメリカは太古はエビロスといわれたのだ。

 そして今は乙姫の世で、乙姫が支配する世だから、実際にいるはずのない妖怪というものがおり、それが人間に化けている。浦島が竜宮から戻った世界が今の日本で、これは真実に実在している日本ではない。日本人はだから今、幻の世界、宇宙にいるのだ。いるはずのないものがいる、妖怪がいる、人間に化けている、それは幻の世界に人間がいるからだ。

 ところが真実の世界である「竹内文献」では、その妖怪であるヒルコが、アメリカの皇子であり、アメリカの祖先になっている。

 事実の世界、真実の世界には、妖怪であるヒルコもいないのだ。それは表側の、アメリカ人、アメリカのことであり、アメリカの王のことなのだ。

 また真実の世界では、イザナミとイザナギの仲違いもまぐわいの失敗もなく、イザナミは黄泉という妖怪の世界、地獄などには落ちていない。ただ子産みの際に、膣にけがをしたために、自分の母国である今日の中東に戻ってその治療を受けただけになっている。そしてイザナギがイザナミに会いに行くが、別に魔物の手勢を遣わしてイザナギを追い掛け回したと言うような記述はどこにもない。イザナミ皇后と言うのは普通にその後、イザナギと日本に帰国しているだけである。

 つまり、乙姫の世とは、その真の世界でなく、真実の世界ではない。幻の世界を意味し、故に乙姫の世では、その幻のいるわけのない悪霊、魔物、妖怪(ヒルコ)もいるのである。そして人間は真実の世界にいないから、実はその乙姫の世、世界にいるために、そのいるはずのない妖怪たちも人間に変身しているのである。

 蘇我氏が製作した古事記は、日本が、幻の世界にいることを暗示するのだ。

 

 

古事記は日本が幻の世界で真実の世界に位置しないことを暗示する

 

 浦島太郎は当時の竹内家の人間だったが、別世界の竜宮へ行った。乙姫の世界である。ところがそこからもどってみたら、そこは真実の宇宙、実在する日本ではなかった。

 「竹内文書」は、その真実の世界、宇宙と幻の世界をつなげる接点みたいなものであるが、竹内文書は真実の世界のことが書かれている。自分が幻の世界に戻ったと思った浦島太郎が、その真実の世界のことが書かれている自宅の竹内文献を見た。これは浦島太郎が、真実の世界へ戻ることを意味する。

 しかし、真実の世界に戻させないとする乙姫が、浦島太郎とその竹内文献を引き離すために、幻の書、その竹内文献の裏側となる相対した古事記を製作し、真実の書であるその竹内文献を自分達の竜宮の勢力に引き渡すように当時要求した。つまり蘇我氏にその文書を引き渡すことをである。

 そして竜宮から戻った浦島太郎は結局はその裏の世界で偽の世界にある竹内文書を見ることなく、その息絶えた。その文献を基にして、幻の書、古事記が蘇我氏によって製作されたのだが、これが日本の正式な国宝と言うか歴史を示すものだとされたのだ。

 つまり浦島太郎は自分が戻った先が真実の世界ではない、おそらくそのまだ過去の世界にいて、実在している世界ではないと言うことを、周囲の日本や日本人、全国の人々に伝えることもできなかったのだ。

 そして以後、蘇我氏が政権を握り、聖徳太子の時代に移っていくが、日本は幻の世界にいたままだった。

 

 

なぜ日本では古事記以外の歴史文献をすべて「不敬罪」にしたか

 

 そして戦後に古事記以外の歴史文献の竹内文献を初め、いろいろな古文献というものが表に出されたことは出されたが、なぜかすべてそれを世に主張する人たちが不敬罪で拘束さている。それが天皇家に対する冒涜だ、という言いがかりをつけられていると言うことだ。

 これは冷静に考えても、竹内文献が歴代天皇家を、古事記以上につづっており、これが天皇家を冒涜する内容のわけがない。また日本の歴史も神武天皇前にもあったと主張するそれらの文献が、なぜ不敬罪に該当してしまうのか?矛盾があるのだ。

 この不敬罪は、乙姫に対して不敬だ、と言う意味なのである。