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村野藤吾最晩年の作品、
1982新高輪プリンスホテル、飛天の間を見て


あなたは知っていますか?涅槃の宮殿のことを。私は今でもたまに行って見てきます。それはこの世にある建築ではありますが、「涅槃の宮殿」としか言いようのない、不思議で、今までに見たこともない建築なのです。

それはまず、地下にゆったりと円形のスロープで降りて行きます。あたりは白く光り輝き、水が流れています。透明な、垂直に並び立つオブジェから噴水となって水が流れ出ているのです。

そこはエントランスなのです。静かで奥深い宮殿に至るための道を示しているのです。たぶん海の底でもあるのでしょう。白いせせらぎを渡り、ふかふかした絨毯を歩むと、天井は魚のウロコが大量に繋がるように柔らかく波うち、光りを秘めて連なっています。

何という天井なのでしょう。建築であることを忘れさせるために作られたのではないでしょうか。宮殿の入口はすぐそこにあります。それは普通の開きの扉です。

でもその何げない入口から一歩中に足を踏み入れ、広い床に敷き詰められた絨毯と、その上に広がる大きな空間を見渡したとき、私は直感したのでした。ここは海の底にある涅槃の宮殿なのだと。

おごそかで心が引き締まると同時に楽しさを秘めている海の底。この世のものとは思えない安らぎと夢の大空間。これが90歳を超えた建築家が作った空間なのでしょうか。どれだけの思いを込めてこの空間を創出したのでしょうか。

どうしてもこのことを考えないわけにはいきませんでした。この建築離れした建築は一体何なのでしょうか。これは村野藤吾が夢に見る涅槃の宮殿を、彼が91歳のこの時に、この世に示したということではないでしょうか。

93歳まで現役で活躍していた建築家が何を考えていたのかということは、非常に重要なことだと思います。そしてこの「涅槃の宮殿」こそ、この世には絶対に必要なものだという村野の確信を示しているのではないでしょうか。

それは建築家村野藤吾のこの世へのプレゼントだったのです。

(2003年、新高輪プリンスホテル、飛天の間を見た時の記憶を元に記述したものです。)

※同じ意味で、生前最後の作品、谷村美術館も「涅槃の世界」をこの世に現したものでしょう。あのやさしい明るさと、不思議な静寂が支配した空間を残して、村野藤吾は旅立ったのでした。


【備考】

村野 藤吾(むらの とうご、1891年生まれ)
1931(40歳) 森五商店東京支店
1935(45歳)そごう大阪店
1937(47歳)宇部市民会館
1951(60歳)志摩観光ホテル
1953(62歳)世界平和記念聖堂
1955(64歳)関西大学 第一学舎・簡文館
1958(67歳)大阪 新歌舞伎座
1959(68歳) 横浜市庁舎
1960(69歳)早稲田大学文学部校舎
1963(72歳)日本生命日比谷ビル
1966(75歳)カトリック宝塚教会
1966(75歳)千代田生命保険本社ビル
1969(78歳) ルーテル学院大学
1971(80歳) 箱根樹木園休息所
1974(83歳) 迎賓館本館 改修
1974(83歳)日本興業銀行本店
1975(84歳)小諸市立小山敬三美術館
1978(87歳) 箱根プリンスホテル
1979(88歳) 都ホテル東京
1979(88歳)松寿荘
1979(88歳)八ヶ岳美術館
1980(89歳) 宝塚市庁舎
1982(91歳) 新高輪プリンスホテル
1983(92歳)谷村美術館
1986(没後) 京都宝ヶ池プリンスホテル
1988(没後)三養荘新館